江戸諸學者の立場

以上を概觀してみると、江戸時代の諸學者は、いづれも西洋の文字の數が少ないことに驚き且つそのことを詠歎する反面において、漢字の多いことを批判的に論じてゐるわけであるが、前にも述べたやうにこれを以て國字改良論と斷ずることは避けねばならぬ。ところが後世の假名文字ないしローマ字論者は、國字改良論と同一線上に位置せしめ、「新しい表音文字採用への強力な國字運動に成長しなければ、いわばなんの役に立つものでない」などと不滿を述べてゐるが、先人は甚だ迷惑に思つてゐるに違ひない。今日の假名文字論者やローマ字論者の役には立たずとも、啓蒙的な役割は十分果してゐるのである。むしろ國語國字運動はあくまでも啓蒙運動の範圍に止るべきであつて、政治運動にまで發展すれば、それこそ最早「なんの役に立つものではない」のである。それはただ混亂を惹起するだけである。

明治以後の國語國字運動の大きな誤りはまさにこの點にあるのである。江戸諸學者のあまりにも單純素朴な議論は、批判の對象となり得るほどのものではないが、その場に踏み止まつて、學者としてその身を持したことは、當然のことながら、その名に汚點を添へずに濟んだことになる。國學者の漢字漢文批判にしても、國學復興といふ情熱に燃えてゐたがためであり、思想そのものは實に堅實であつたと言へる。

當時初めて西洋の文字に接した彼等が、いづれも表音文字である洋字と、表意文字である漢字の特性を混同してしたまつたことは、當然と言へば言へるが、意字である漢字の特質を洋字に求めることが無理であると同樣に、表音文字としての特質を漢字に求めることは無理である。それぞれ長所と缺點とを有するものであつて、一方の長所を以て他方を計らうとしてはならぬのである。

西洋ではその文字の數が少ないとしても、それを綴り合せてつくる單語といふものが何千何萬とあつて、それを一つ一つ記憶せねばならぬのであり、丁度その單語の數が日本の漢字の數に相當するものであることは、今日では小學生でも承知してゐるのであるが、そのことが今なほ假名文字論者やローマ字論者には解つてゐないのである。

江戸の諸學者を、後世の國字改良論者が、自分たちの先覺者と見てゐる點を裏から言へば、後世の國字改良論者は、ただ漢字の缺點をあげ、假名ないしローマ字の利點をあげ、その兩者の文字としての優劣を論ずれば、それで立派な國字改良論になり得ると考へてゐることになる。國語國字に限らず、人間自身も、社會そのものも、さういふ便宜主義だけで動いてゐるのではない。便宜主義では推測し得ない内面的な生命そのものの力によつて動いてゐるのである。

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