『今後の問題(その六)』(7‐47‐10 漢字について)

二 漢字について 現行の「當用漢字表」は第一に、漢字制限の意味をもち、字數は一八五〇字、そのうちそのうち教育漢字として八八一字が指定されてゐる。試みに例を擧げれば、次の語のうち、左側のそれが常用漢字以外である。 〇犬鷄馬松桃霧峰君彼好才服衣目鼻舌額指盜陵 猫兔鹿杉栗泥霞麓僕誰嫌智靴袖眉頬臀顎爪賭岡 〇腰脚洗肉飯藍菜庭植花机門墨稻刀雨行棒酒 股膝拭汁椀漬鉢瓶棚柵硯栗槍傘戻杖樽 〇行書 封筒 葉書 草履 元帥 女房 窒素 同僚 爐端 收賄 楷書 便箋 投函 足駄 軍曹 亭主 燐酸 明瞭 火鉢 牢獄
第二に、「常用漢字表」にある漢字も、すべて「音訓表」によつて一定の讀み方が決められてをり、それ以外の用法は認められてゐない。例へば、小・中學校では次のやうな讀みは教へられない。 〇父(母・兄・姉)さん 芝生 生立 尊ぶ 嫁ぐ 善し惡し 温い 遲い 濱邊 山際 弟子 乳房 掃除 土産 報せ
第三に、それに伴ひ字體の改革が行われたため、たとひ「當用漢字表」内の文字にしても、學習者は新舊兩字體を知らねば、古典はおろか、戰前、戰中の文獻すら讀みえず、またそれらの漢字相互間に、或いはそれらと字體改革の及ばぬ制限外の漢字との間に、字音や意義の關聯が失はれ、その不合理が學習者にとつて二重の負擔となつてゐる。 漢字問題の所在は、第一に、漢語が國語のうちにおいていかなる意義と機能を有するかにある。その意義と機能とを心得ない無意味な用法は論外であるが、さうゆふ誤れる用法のために國語における漢語そのものの存在を否定することは出來ない。漢語はすでに國語である。第二に、それを國語として必須のものと認めるなら、その漢語を表記するために漢字を用ゐるべきか、假名文字を用ゐるべきか、或いは語によつて適當に兩用すべきかが問題になる。第三に、漢語ならぬ本來の和語に漢字を用ゐること、すなはち訓讀みの可否の問題があり、それに伴ひ、「見る」「視る」「觀る」看る」など、同訓の異なれる漢字を用ゐることの可否と程度の問題がある。「當用漢字」「音訓整理」「字體改革」の過ちは、以上三の本質的な問題に直面することを避け、それを機械的な必要や難易の問題にすりかへて、皮相な解決を計らうとしたことにある。そのことは右に擧げた制限内漢字と制限外漢字との對應によつて明かである。一文部事務官によると「明瞭」といふ語は言ひ換へが可能であるあるから文藝家にも不用と考へ、「瞭」を省いたのであり、一方「魅力」といふ語は言ひ換へ不能であるからと考へたので制限内に入れたといふ。しかし、漢語は同音異義語が多く、漢語を奪われては存續しえない。故に文字の廢止は語の廢止に通ずる。語の言ひ換へは子供が未知の語を理解するための手懸かりとして必要なのであつて、嚴密には相互に言ひ換へ可能な二つの語は存在しない。その事は何も文學や思想のやうな高級な作業についてのみ言ひ得ることではなく、日常の會話や書 においても同樣なのである。例へば「存在しない」と「無い」とは同義で言ひ換へ可能と言ふかもしれるが、前者は七音節、後者は二音節であつて、前者の續き具合によつて、どちらかでなければ、長過ぎてくどくなつたり、短か過ぎて尻切れとんぼになつたりすることがあり、少し言葉に敏感な者なら、その不快感を避けようとして、いづれか一方を選ぶに相違ない。また、同音、類音の聽きぐるしさを逃れるために、「明らか」「明白」のいづれでもない「明瞭」を必要とするときもあらうし、「瞭」といふ音の響きと語義との關聯を愛し、更に「瞭然」といふ語との聯想を求めて、「明瞭」を選ぶ時もあらう。しかも、これらの事は程度の差こそあれ、誰もが潛在意識的に行つてゐることなのである。のみならず、、右の「瞭」ごとき、音においても字畫においても、制限内の「寮」「瞭」と通じ、それを知ればおのづと憶えられるものである。また訓讀を禁じられてゐる「父」「尊」「温」「遲」「報」等、すべて音は教へられる。が、音のみ教へられる。が、音のみ教へて意味を教へぬといふ漢字教育、漢字觀はありえぬ。意味を知れば、それが訓である。音訓整理とはその既知の訓の使用を機械的に琴ずることである。誤りは表意文字としての漢字を表音的に固定せしめようとすることにある。なほ、漢字訓讀みの效用は、同音類音の多い和語の假名遣にあつて形態と意味の密度を強化し、讀みの能率を高めることにあるが、戰後の漢字對策はそのことを全く無視し、字畫や頻度のの觀點からのみ機械的に處理しようとしてゐる。それどころか、その字畫やひんどさえへ當然必要な準備を怠つてゐる。
ついでに言つておくが、かういふ杜撰な「當用漢字」をもつて刑法の書換へを行はうをする試みが進行中である。「当用漢字」とは少くとも最初は「當座の用」を足すといふ意味に用ゐられたのであるが、その後表音派が審議會を支配するに及んで、事實上は 減を目ざす漢字制限の枠を示すものとなつた。殆ど半永久的と考へられる刑法に適用しようとしてゐるのも、その考へ方の現れであり、同時に刑法に適用する事によつて、それを半永久化し、それに「當座の用」以上の權威を與へる結果にもなる。その意味において、我々はこの暴擧を喰ひとめなければならない。
勿論、我々としては、國語における漢語の意義と機能を認めると同時に、その便なるあまり過度にそれに頼らうとした過去の弊をも認めなければならない。隨つて、語彙制限を招くやうな漢語漢字の「字數」制限には反對するが、新聞その他の實用面における自主的な「使用」制限、或いは廢止は、その言語主體の自由にまかせるべきである。いづれにせよ、事前に周到な調査を必要とする。がその場合にも、假名遣におけると同樣、漢語漢字の本質と歴史とを明かにし、語義、語法、音聲などの觀點から、和語との相互扶助の關係を破壞せぬやう注意せねばならない。また、現在の「當用漢字」のごとく、日常生活では最も必要な地名、人名を無視した半社會的な考へ方を捨てねばならない。大體の豫想では、三千字内外の漢字を義務教育期間に修得することが必要とならう。が、それはあくまで必修の教育漢字であつて、漢字制限を意味しないことはもちろんである。訓讀みは自由に放置しても、振假名ののない現状では混亂の心配はない。また字體ついては過去のそれを絶對のものとは考へないが、もしこれを改革しようとするなら、その必要の根據を明確にし、「當用漢字」のみならず、漢字の文字體系全體にわたつて舊字體との關聯、及び新字體相互間の關聯を絶たぬやうに留意すべきである。現在のものは全くでたらめであつて、一日も早くこれを廢棄するにしくはない。



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