「日本漢字教育振興協會」(9‐7)
 
 石井勳が昭和三八年三月に出版した『一年生でも新聞が讀める』を讀んで感激した井上文克(大阪・小路幼稚園園長)が石井を訪ねたことが切掛けとなり、昭和四三年四月に「幼年國語教育會」が設立され、大阪を中心に各地で、いはゆる「石井方式」による「幼兒からの漢字教育」の講習會や實踐指導が行はれた。同時に幼文社から『幼兒のための漢字繪本』、登龍館から『花園文庫』全十二卷などが出版され、徐々に石井方式を採用する幼稚園が増えて行つた。同會の二十周年に寄せて、井深大は「日本にはいろいろの幼兒教育機關があり、澤山の研究者が居られるが、ほんとうに自分の流儀で幼兒教育を開拓し、廣めて來られた代表的な人といえばバイオリンの鈴木(鎭一)先生と漢字の石井(勳)先生だといい切って差支えないだろう」と述べ、鈴木鎭一は「石井先生の、どの子も高い能力に育つ、事實を發見し世界に訴える深い愛の運動に對して、昔から私も心からの尊敬と感謝を捧げている一人であります」と述べてゐる。
 
 この「幼年國語教育會」は二十五周年に當り、平成五年十一月に改組して「日本漢字教育振興協會(會長・石井勳)となつた。(註)その「設立發起人」に、
   石井公一郎   井上文克   井深 大   宇野精一   奧野誠亮
   小田村四郎   木内信胤   小堀杏奴   鈴木鎭一   關 正臣
   滝沢幸助    土屋秀宇   林健太郎   林 巨樹   原田種成
   船田 元    三瀦信吾   村尾次郎   山本夏彦   吉田尚弘
 などの名が見られる。同協會の「設立趣意書」には「人は言葉によつて靈性を磨き、萬物の靈長となつた。日本人は日本語によつて日本人となるのである。故に、美しい日本語を使ひ、豐かな日本語を身に着ければ、立派な日本人になるが、貧弱な日本語だと貧弱な日本人になつてしまふ。この言葉を使ふ能力の基礎は、幼兒期に作られ、出來上がつてしまふ。言葉の學習において、三、四歳の幼兒期が『成熟期』とされる所以である」「從來に倍して、幼兒兒童に對する教育指導の向上發展に努め、以て國家、社會に貢獻したいと願ふものである」とある。また「定款」の第五條(事業)には「漢字教育の教材及び指導法の研究・開發」「漢字教育の研究會、講習會の開催」「全國漢字かるた大會の開催」「會報『育み』の發行」などが擧げられてゐる。
 
 なほ、會報『育み』は平成十六年三月で三十九號になるが、同協會の事務局長の土屋秀宇は「國語再生への祈り」を連載してをり、「その八」(平成十五三月)に「日本人は國語無しに生きてゆくことは不可能である。すべての教育は國語を土臺にして行はれるといふことが原理原則である。その國語が、いつの間にか癌細胞に冒されるのに似て、戰後半世紀以上にわたつて病んだままでをり、その病んだ國語で教育されてきたために、日本人の精神が衰弱してきてゐるのだといふことの自覺症状のない人々があまりにも多い。昨今の日本人の精神の貧困は、癌でいふところの末期症状にそつくりである」と書いてゐる。

(註)『國語問題論爭史』(玉川大學出版部發行)の出版された平成七年時點の文章。平成十七年に同名の「幼年國語教育會」が(「日本漢字教育振興協會」とは別の團體として)再結成され、現在も活動を續けてゐる。