國語問題早解り  上


sc 恆存     



  第六期の國語審議會委員が決つたので、それを機會に、この半年間おそらく空前絶後と言つてもよいほど世間を賑はせた國語問題について書く事にする。空前絶後の賑ひと言つても、それは國語問題としての話で、これまで國語問題が一般國民の關心を引いた事はなく、それだけに急に新聞種になるやうになつても、論爭の焦點が一體どこにあるのか、大方の人には解らず、問題が大きくなればなるほど、誤解が重り、焦點はますますぼけてしまふのである。私もその論爭者の一人で、したがつて誤解の責任も背負はねばならぬのである。そこで、いはばその罪滅しに、自分の主張は後廻しにして、まづ問題の在り所を平明に示し、讀者に判断の材料を提供しようと思ふ。
  (一) 國語問題とは何か  國語問題とのみ言へば、そこには色々な事柄が含まれる。たとへば標準語の問題である。今では東京人の言葉が標準語と決つてしまつたが、それをさう決めた明治初期においては、それは重大な國語問題であつた。京都の言葉を標準語と決めてもよかつたのである。が、東京語を中心として標準語が決められ、誰一人それを二たび國語問題として提出し直さうなどと思はなくなつた今でも、部分的には未解決の問題が澤山ある。「むかしい」と「むかしい」「まぬれる」と「まぬれる」、そのいづれを標準語と認めるか、あるいは兩方とも許すか。また「ぱつちり」「がめつい」の方言出身の言葉や「ラジオ」「インスタント」の外來語出身の言葉を、どう處理するか。その他、俗語や流行語をどうするか。平生は問題にならなくても、いざ教科書や辭書を作る段になると、簡單には片附かない。
  また敬語の問題がある。敬語を濫用するのも困りものだが、といつて、敬語なしでは國語は成立たない。なぜ成立たないかは、ここでは言ひ盡せないが、とにかくそれなしで成立たぬとすれば、それをどの程度に使ひこなすのが望ましいかといふ事も、國語問題の一つである。それから語法、語義の亂れや間違ひをどうしたらよいかといふ問題もある。たとへば、元來は「見れる」「見る」と言つてゐたのに、近頃は「見る」と言ふ人が多くなつた。「見て」が「見て」になつた。やはり方言の影響であらうが、この語法の亂れを許してもよいか、いけないとすれば、なぜいけないか、それも國語問題の一つである。語義の間違ひは漢語に起り易い。たとへば「豹變する」といふのは、君子が自分の過ちを悟り、直ぐ改める場合に使ふのだが、それをただ「急激に變る」といふ意味に時々用ゐてゐる人がゐる。その間違ひをどうするか。これも國語問題である。
  それよりも多いのは、やはり漢語の讀みの間違ひである。暫く前、ある百貨店で「反省」を「ハソショウ」と言つてゐる賣子に出會つた。これは文句なしに認めがたいとしても、それなら「病、膏肓に入る」の「膏肓」は「コウコウ」であるのに、下の「肓」を「盲」と間違へて「コウモウ」と言つてゐる人の方が多いが、この程度は認めてもよいか、それともやはり正しい讀みを普及せしめたはうがよいか。さらに突込んでゆくと、さういふ間違ひの起り易い、譯のよく解らぬ言葉は使はぬはうがよくはないか、また使はぬはうがよいとしても、それなら一思ひに禁止すべきかどうか。それらの事柄も國語問題である。そのほか文語と口語の問題、外來語氾濫の問題等々、國語間題の材料は幾らでもある。
  (二) 表意文字と表音文字  右に述べた澤山の國語問題の一つとして、國語の表記法(書き表し方)の問題がある。今日、一口に國語問題と言はれてゐるものは、專らこの表記法の問題をさす。正確に言へば、それは國字問題と言ふべきである。それを國語問題と呼ぶのは不用意からではあるが、結果的にはそれも間違つてはゐない。なぜなら、表記法をどう變へるかは、單に表記法だけの問題にあらず、國語全體、殊に語法や語義に大きな影響を與へるからである。その事は後に述べる。
  ところで、國語は極く大昔は別として、大體、漢字と假名とを交ぜて書いてきた。それを漢字假名交り文と呼ぶ。今日でも、といふのは戰後に大幅に漢字制限をした今日でも、その點に變りはない。そこに表記法として複雜な性格を生じるのである。なぜなら漢字と假名とはたがひに性格を異にする文字だからである。たとへば、右の「表記法」といふ三字はそれぞれ「ヒョウ」「キ」「ホウ」といふ發音を示してゐると同時に、「あらはす」「しるす」「やりかた」などの意味をも示してゐる。漢字はすべてさうなので、意味をもたぬ發音だけの文字といふのは無い。即ち、それは字であると同時に語なのである。かういふのを表意文字と名附けてゐる。それに反して假名はローマ字と同樣、一つ一つには意味をもたず、發音だけを示すもので、これを表音文字と名附けてゐる。
  表意文字を使用してゐる國は、世界中で日本と二つの中國だけである、ただ中國では表意文字だけしか用ゐてゐないが、日本では表音文字も併用してゐるといふ點が異なる。したがつて両者を併用してゐる國は世界中で日本だけといふ事になる。それに、日本と中國とは同じ表意文字の漢字を共用してゐると言つても、その用ゐ方は必ずしも一致してはゐない。日本ではそれを二樣に使ひ分けてゐる。今、例に擧げた「表記法」の三字であるが、それらはいづれも次のやうに二つの用法をもつてゐる。

    ヒョウ         ホウ
    あらはす   しるす   のり

  この二行の右側のを音讀みと稱し、左側のを訓讀みと稱する。その音讀みだけが中國と共通であつて、訓讀みは日本獨自のものである。もつとも、音讀みは中國と共通と言つても、現代中國の發音とは異なり、漢語、漢字が日本に移入された當時の發音を用ゐてゐるのだが、それも當時の支部の音そのままではなく、たとへば英語の「レイディオ」が「ラジオ」になつてしまつたやうに、自分達の發音習慣に合ふやうに日本化して用ゐてきたのである。ところで、支那では、時代と地域により多少の差はあるが、原則的に一字は一音のみを表し、それが日本に這入つて來ても、音讀みの場合は大體一字一音に用ゐられてゐると言つてもよい。
  しかし、日本ではその音讀みのほかに訓讀みの用法が生じたので、同じ文字が二樣に讀めるやうになつた。それだけではない。その訓讀みが一種類とは限らぬのである。右の例の「表」だが、これは「あらはす」といふ用法と同時に「おもて」といふ用法がある。そこで「戰後の記改革は向き漢字假名変り文を認めてゐるやうだが、そこには漢字廃止の意圖がはつきりれてゐる」といふ風に、一文中に同じ「表」の字を三樣に讀み分けるといふ事態が生じた。もちろん、「塔」「氣」「菊」のやうに音讀みだけしか無いものもあるし、日本で造つた漢字(?)「峠」「辻」のやうに訓讀みしかないものもあるが、殆どすべての漢字が音訓二樣に讀まれ、またその訓に多種類あり、よく引かれる例であるが、「生」のごときは、「(先)セイ」「ショウじる」「む」「きる」「える」「る」「ふ」「(芝)」「(一本)」等、實に多い。
  なぜかういふ事になるのか。訓讀みといふのは、要するにその漢字の意味だけを借りてきて、本來の發音を捨ててしまつたものである。ところが、言葉の意味内容といふものは、H2Oのやうな元素記號とは異なり、唯一の固定した事實を示すものではない。「生」の一字一語には、右に擧げたやうな相似た多くの意味がある。それをすべて訓讀みとして利用したと言へば極端だが、その氣になれは、すべて利用できるのであり、それを間違ひとする理由は無い。訓讀みといふのはさういふものなのである。同時に「生む」の代り「産む」を用ゐてもよい。しかし、「生きる」の代りに「産きる」とやる事は許されない。漢語「生」には和語の「いきる」に相當する意味があるが、「産」にはそれが無いからである。
  ついでに言つておかねばならぬ事がある。漢字は表意文字であるからといつて、表音的性格をもたぬといふ譯ではない。既に言つたやうに、本國の支那ではそれぞれが決つた一音を表す事を原則としてゐる。「生」の場合は「セイ」「ショウ」と二つの時代の二音がそのまま日本に移入されたが、それにしても、それは明確にその二音のいづれかを表してゐる。しかし、訓讀みにおいては、それと同樣な意味において、「生きる」の「生」は「イ」の音を表すと考へるのは間違ひである。さう考へると「急ぐ」を「生そぐ」と書いても差支へないといふ事になる。もちろん、それはいけない。訓讀みといふのは漢字の發音を捨てて、その意味だけを借りたものである以上、本來の意味はそのまま殘つてゐる。したがつて、「生」は何と讀むかと言はれたら「セイ」「ショウ」と音讀みで答へるのが自然であるが、また「うまれる」「いきる」等の訓讀みを言つてもよい。が、「う」だの「い」だのと答へるのは間違ひである。「うまれる」の「う」あるいは「いきる」の「い」と答へてもいけない。「生」は一字で「うまれる」「いきる」の意味をもつてゐるのであり、訓讀みはその意味だけを讀むものだからである。
  (三) 表書主義  以上の結果として、國語表記には他國に見られぬ複雜な性格が生じた、それは發音と文字との間に何の關係も無い表記が多いといふ事である。それらは(甲)同一文字で數音を表す場合と(乙)數字が同一音を表す場合とに分けられる。(甲)は「生」が「生む」にも「生きる」にも用ゐられ、さらに「セイ」「ショウ」と發音される事を言ひ、(乙)は異なる「生」「産」の文字が同じ「うむ」に用ゐられ、さらに「生」「省」「勢」等、あるいは「産」「山」「慘」等の異なる文字が同じく「セイ」「サン」と發音される事を言ふ。表音主義の立場から言へば、かういふ現象は表記法の「混亂」といふ事になる。
  ところで、表音主義とは何か。それは言葉を書き表す際に、表音文字のみを用ゐるといふ事である。日本の場合は差當つて漢字を廢止し、假名文字だけにする事、あるいはその假名の代りにローマ字を用ゐる事を意味する。しかし、實際はそれだけでは濟まない。國語を假名文字だけで書くとしても、その書き方、即ち假名遣が問題になる。私が用ゐてゐる戰前の歴史的假名遣を今日の現代假名遣に較べると、假名といふ表音文字を用ゐてゐる點では同じだが、その用ゐ方は同じではない。どう違ふかと言へば、前者が表音文字を非表音的に用ゐてゐるのに反して、後者においては、表音文字は表音文字らしく表音的に用ゐてゐるのである。たとへば、現代假名遣の「思」「おめでう」は歴史的假名遣では「思」「おめでう」であつた。同じ「イ」の音に「い」と「ひ」の文字を用ゐ、同じ「ト」の音に「と」と「た」の文字を用ゐるのは表音的ではない。表音主義の立場からは、これも「混亂」現象である。要するに、表音主義とは、第一に、表音文字のみを用ゐる事、第二に、それを表音的に用ゐる事を目ざすものと言へよう。
  (四) 表音主義の利點  それなら、表音主義の利點はどこにあるのか。言換へれば、假名文字論者やローマ字論者はどういふ動機から國語表記の表音化を目ざしてゐるのか。次にその理由を箇條書にして列擧してみよう。
  (1) 發音と文字とがずれてゐる事、あるいは相互に無關係である事は、不合理である。文字は讀みを表すものであり、事實、世界の趨勢から言つても、さうなりつつある。
  (2) 漢字や歴史的假名遣の使用は煩雑でもあり、難しくもある。學校教育において、その習得に無駄な時間と勞力とを用ゐ、しかもその結果、大した成果を擧げえず、一般社會における表記法に混亂が生じた。
  (3) さういふものの習得に時間と勞力とを費すよりは、算數、理科、社會科などにもつと力を入れたはうがよい。さうしないと、日本は近代化において先進國に追附かぬばかりでなく、後進國の中國に追越されてしまふであらう。なぜなら、中國も漢字廢止のローマ字化に第一歩を踏出したからである。
  (4) 殊に戰後は、産業の機械化が發達し、それが事務處理の世界にまで侵入してきたので、たとへばタイプライター一つを取上げてみても、表音文字の方が遥かに簡便で能率的である。漢字や歴史的假名遣を背負ひこんでゐたのでは、いつになつても、事務の近代化は計れない。
  大體、以上が表音主義の主張である。そこで問題になるのは、それにしても、戰後に行はれた漢字制限、その音訓整理、假名遣改變、迭假名制定は、その主張どほりになつてゐないといふ事である。第一に、漢字制限といふのは、漢字廢止とは別事である。制限前でも、そこに制限が無いからといつて、約五萬の漢字がすべて用ゐられてゐた譯ではなく、普通は三千前後で間に合つてゐたし、また戰後に當用漢字を制定したからといつて、それ以外を用ゐない譯ではなく、それを守つてゐる新聞にしても、地名や人名では自由に用ゐてゐるから、實際には大した變化は無いと言へる。第二に、現代假名遣は歴史的假名遣に較べて遥かに表音的になつたが、さうかといつて、完全に表音的になつた譯ではない。一つの假名で二つの音を表してゐる場合もあり、同じ一音を表すのに二つの假名を用ゐる場合もある。格助詞の「は・を・へ」が歴史的假名遺そのままを殘し、「わ・お・え」としなかつた事、同じ「お列」の長音を一方では「こり(氷)」としながら、他方では「こり(行李)」とした事、あるいは同じ「ジ・ズ」の音を一方では「は(恥)」「さしめ(差詰め)」としながら、他方では「はな(鼻血)」「すしめ(壽司詰め)」とした事などがそれである。
  そこで、戰後の表記法改革が表音主義の原理に基づいて行はれたものだといふ私達の非難に對して、當事者は必ず右の事實を擧げ、決してさうではないと答へる。審議會にあつて、その主勢力をなしてきた假名文字論者とローマ字論者は、たとへ自分達の理想はそこにあつたとしても、それは個人のもので、公共機關としての審議會では決してそれを主張しないし、その實現を計らうともしなかつたと言ふ。
  それに對して、私達は次のやうに反駁する。第一に、一般に表音主義の原理は誤りであるばかりではなく、殊に日本語の場合、それは國語を破壞するに至る。第二に、戰後の表記法は完全に表音化された譯ではないが、むしろその弱點は、原理的に表音主義に基づきながら、實際にはそれに徹しえなかつたために生じたものである。その説明は次囘に譲る。




* sc原著表記でJIS規格に無い文字(時々の「々」に當る字)は止むをえず「々」に替へました。



(本文「國語問題早解り」は新潮文庫の『増補版・私の國語教室』(昭和五十年四月刊、絶版)に載つてゐましたが、文春文庫版の『私の國語教室』および『sc恆存全集』(兜カ藝春秋刊)には洩れてゐます。本掲載は著作權者の許可を得てゐます。無斷轉載を禁じます)


「早解り 下」へ   戻る



閉ぢる